お話の台

心定め

 

 身上危なき時や、又は何か一つこういう事を叶えて貰いたいと思う時の誠は、真の誠とはいわん。そういう時には、如何なる者もどんな者でもそれ誠がわく真実がでる。又いかなる心も定めるであろうなれど、これは一時の理一時の心定め一時の誠、真の心定めでは無い。それ日々という常という、一度定めた精神は日々常に変らんのが真の誠、それ真の心定めたというであろう。これは第一聞いた上にも話しを聞き、理を治めるによって日々常に変らんという心が定まる。それ話しは第一というであろう。

 

急ぎ徳を求む可からず 

 

 道をつくす効能によって、早く結構を見たい、早く結構に成りたいと心を急いで無理をしたならば、いかなる理がわくやしれん。若死したり弱ったり、寝所を離れられん様な事有っては、結構も何もあろうまい。無理というはならぬ者、物というは旬という、それ時節ともいうであろう。せくで無い、急ぐで無いこれも一つ理であろう。

 

 心次第の徳

 

道を尽くす効能の理というものは、これを物にたとえた成らば、大きい物や重い物貰うには、大きい箱や丈夫な箱でなくては貰え様まい。こうのふの理も同じ事。大きい入れ物持て来るなら、大きい理を渡してやろう。丈夫成る入れ物なら重い物でも渡してやろうという。それこうのふという。

大きく積めば大きい理を頂ける。丈夫な心に堅く理を治めたならば堅き重き理も頂だける。それいかなる理も心次第というであろう。

 

助け一条のはなし

 

 助けというは、よろず助けの事成ればその手立ては一筋や無い、二筋や無い、幾重幾筋も有る。金銭持って人を助けるもあり、話しの理を持って助けるも助けなら、よろず口先三寸で助けてやるも助けという。木の葉一枚散らしてくれな、人一人むだにしてくれな。あんな人あほうな人や、あんな人足らん人やというて蔭で笑い出てはなぶり、あほうな者をあほうにし、足らん者をなを足らん人にする。それでは、互い/\の理は無いで、助け合ともいえ様まい、立合ともいえ様まい。

 

行届かぬ者があったら行届く様にしてやり、悪き事におぼれて居る者を見たら良き様に救うてやり、あほうな人やといって笑うならば賢い者にしてやり、足らん人やというてなぶるならなぶられん様にしてやり、それ銘々の力そうに育ててもやり、仕込んでもやり、こけた者なら起こして通るが、これが誠の一つで有る。そうしてこそ立合であろう助合であろう、互い互いの理というはそれ茲をいうであろう。

 

人を育てる道

 

 銘々力の及ぶだけ人を育て人を仕込み、人を教て通りたならば神のやかたを御造りたるも同じ事という。それ人は神というであろう、神というても柏手を打つ神でも無ければ又拝む神でも無い。人は皆神の子というであろう、神の子一人不足な者満足にしてくれたなら、神のやかたを造りたも同じ事。神はそれ程に受取るという。それ不足な者満足にするというは、つく息引く息一つ口先三寸それ出る所の言葉の理によって出てきもすれば、又人に腹立てさす様にも成る。なれど心に誠治まり有ったなら、つく息引く息皆心通り誠の理が出て来る。心に誠治りて人を助けたい精神なら、それ口先三寸でも人を助ける道はある。

 

互 い助け合いの事

 

 世界の人というは皆神の子いう。神の子成れば一列は皆兄弟であろう、他人というては一人もあろうまい、それ一つよう思案せん成らん。他人と思えば互い互いの理も治まろうまい。成れどそれ兄弟という、一列皆兄弟で有ると思えば人一人倒せようまい、捨てられ様まい。この心を持って、日々という常という。人を助けて行く成らば、たのもしいという理があろう。互い助け合の心で日々通りたなら内々という世界という丸くおだやかに治まるで有る。

 

恩を忘るるべからず

 

 人間という者はあさましき者で、世界にありとあらゆるでおつくしても、身に効能無くして医者にも見離され、人にもあかるる様の身の上を信心の理によって万端神の助けを受け、助すかりた上は、何でも一筋の真心を持って神様にもたれて御心に叶う様、又一つ道のようだいも聞き知りて、道の為世界の為に尽くそうと心を定め身上速かに成りても、それ日が立ち月を経るにしたがうて、何時という事無く始の結構を忘れ一度定めたる心もうせて、どうかすると身引き身勝手出て来る故、又身にせまらん成らん様に成る。それ、これ迄も人に恩を受けて返す事を知らぬ者は、畜生にもおとりた者やというて、恩という事は忘れなんだ者で有るのに、今迄に無い所の大きな恩を受けて、ただうかうかとして忘れてしもうては、再び身にせまるもあたりまへの事で有る。因って一度こうと定めた其心を忘れぬ様に気をつけて、永く心を変はさんように気をつけねばなろうまい。

 

口手心と三つ揃うて誠という

 

 誠というは、口と手と心とこの三つが揃うて真の誠という。それ、心にいか程口で誠の話しするとも、真の誠が治まりあれば行いにもそれにそうて、それ、する事成す事日々常に、いかなる事も皆誠の様にばかり成るで有る。けれども心に誠治まり無いとそれどむ成らん日々常々にする事成す事が口で話した事に違うから世界からそれあの人は口先ばかりうまい人やという事だけは誠のよう成れどもというてそれ話しの理用いて呉れぬ様に成るそこで口と心と手と揃うて人によりああなるほどの御方やなあ、どうもかんしんな人やなあ、たのもしい人やなあ、といわれる様うにせねば成らん真の誠で通ろうと思へばそこで一つたんのうという理を心に治めて我れはどうでも人さえよくばわしはもうこれで結構やこの上どの様うに成ろうとも人さえ助かって呉れたらばそれでよい何でも人助かって貰らわねば成らんという心を定めねば成らん

 

人に上下あり

 

世の中は同じ人間というても貴きもあれば賎しきも有る。ゆたかもあれば難義も有る難義というても難義の中の難義もあれば不自由の中の不自由も有るそれ上を見てはきりは無い又下を見てもきりは無い前生よりの因縁で有る事成ればどういう事でも皆銘々に下を見て日々にこれで結構とたんのうするが第一そこでいかなるもたんのうたんのうが第一皆銘々たんのうして又人にもたんのうをさせる様というそれつくいき引くいきもあれば聞く聞かん見る見んの理を聞分け人に腹立さぬ様人のよろこばぬ事嫌う事少しもせぬ様又いわぬ様あの人はよい人やあの人のいう事は角どが無いあの人のする事は皆まるいあの人の様で無くては成らんと人に思はれ人に喜こばす世界皆満足して呉れるこれを人にたんのうさしたというであろう。

 

因念の事

 

 因念というは前生ばかりが因念やない悪きばかりが因念や無いこの世うでも十五才より以来して来た事は善きも悪しきも皆因念と成る又前々善き事してあれば因念と成りてこの世うであらわれ出るが又は次の世うにてあらわれる必ずあらはれんという事は無い悪しき事もそのとおり成れども善き因念は皆一れつに喜ぶ事故え直ぐとあらはし直ぐと返して下さる。それとも悪しきの因念はでけるだけは延ばして居るという。

 

はたす事

 

それ世界中は皆神の子供。故人間の我子思うも同じ事。皆愛いばかりで隔ては無い。故に悪しい事仕ても、又その内に善事をして前の悪しきをうめるか知らんと愛いさに悪の報いは段々延びる。そこで善事をしてうめやわせをすればよいがそこには気もつかず悪に増長して段々悪しきの因念が重なり、それより又あらわれて来ると大増やからどうしても人に役界を懸けて恩をきん成らん。恩をきてもついに返すめは無くて恩をき恩に恩が重なりてついに人間にも出られず恩報じする為、牛馬に迄落ちん成らん。

 

今迄は気の毒ながら旬がこぬ故、そのままにしてあった説いて聞かして心改めさした事はない。こんどは月日刻限来るから話し一条で心改めさして悪因念の者も心改めた。与えに因ってけづりてもやり、又善き因念は早く返して貰い、悪しき因念の身持って居るに違い無い。故この因念を果たす為、誠一つを題として人を助けにや成ろうまい。又一つ前生よりの因念は善悪共に七増ばいの返しをするという。

 

徳を頂く事

 

 人を助けさして貰うは我が心の何でもという真心に神様が乗って働き下さる。故に人が助かるのやけれども助かった人元より神様の御陰とは思うであろうが、そうかというて、わたしは神様の御陰で助かったから、あなたには少しも御恩は無いというて礼一つ述べぬ者があろうかあらしよまい。皆あなた、故あなた様の御陰でというてたて立て来る者ばかりやそれ助けという。神様の力で助かってその徳は皆銘々に貰うというはこれはそれ人を助けたいという。誠真心の徳というのやで。

 

心の変わらぬ様の話し

 

 神の話しを聞いて成る程とかんしんしてさんけいすればそれ一時はその心に因って助けて下さる。ちようど高木に登りて足場のやぐい故に落ちた様な者今迄知らず知らずにつけたほこり故さんげいすれば一時に助けて下さる。なれどもその場さんげいして助かってもそれからの心が今迄と同じことで神様の話の理に違ってあればちようどよはい足場から落ちて又そのまま登る様な者元の通り又落ちるは知れたことそれ身上も又元え戻る。そこで一度落ちたならそれ丈夫なる足場と替えて登ぼればきずかい無いというは誠の堅き心と替えて通れば又元え戻るということはないのや。

 

立毛にたとえての理

 

 信心するは立毛を作る様な物今立毛を作るには種を蒔いて若し修理をせねば草がしこりて訳分からんようになり又肥をせねばせいじんも無いせいじん仕無ければ花も咲かん実ものりそうな事は無い。今話しを聞いて成る程と心をとめるのはこれが信心の始め立毛なら種まき様なものや段々と話しを聞いたうえにも聞いて追々と理を治めるは修理の様なもの理を聞き分けて道をつくすはそれ肥という肥をおく様なものそこでつくすだけの効能は天より与えて下さるのや立毛なら身が乗った様な者やそこで有るからしてたとえ二十年三十年前に信心をしたかというてもその間聞かんうえにも話を聞かず又道を尽くさんばかりでは無い話し聞かんから理が分からず天の理にかなうことは無く横しまの道に踏みかぶって居る様で有れば二十年三十年や無い。例え百年二百年立とうとも花の咲きそうなことも無ければ実りそうなことも無い。年限立つ程枯れるばかりくさるばかりで有ろう。

 

 借 物

 

 借り物という理が分かればいかなる事も皆分かるというそれ借り物の理が分かればほしいおしいのほこりも無く可愛い憎いの隔ても無い人を恨むの心も出さずいつも心陽気で有って腹立つ様な事もわこうまい。うそについしょこれ嫌い欲に高慢大嫌いというこれ心に分かるであろう。さすればいかなる事も皆分かりて世界誰一人難儀する者も不自由する者も無く火と水との御いけんも無く我が身に掛かる病みわずらいも無くなるであろうそこで世界一れつ早く借り物の理を論とって貰いたいというなれども一度や二度三度の話しでは耳に聞いても心に理分からん借り物の話しはたやすい事なれど日々の行いが話し通りの行いで無くては理が分かったとはいえんそこで聞いた話しは心の内で幾重にもかみ分けをして見てこう心に治めねば成らん。

 

教祖の履歴

 

 道をつくそうという心の者はこわきあぶ無き恐れて居る様ではどむ成らん。暑さ寒さひだるいかえだるい位いのというていてはどむ成らん`どの様な事も出来るだけの心ぼうして何でも教祖の御通りに成りた道をしとうてその万が一でも通らして貰いたいと思うて人を助ける為には暑さいか程ひどきとも、寒さどれ程厳しいとも少しもいとわぬから体がひだるいともでけるだけのしんぼうをして恐ろしい所も恐れずに骨を折りてこそ教祖の跡をしたいたいといわれる。それ教祖の苦労はちょっとにいはれんけれども一つ二ついうなら夏の暑い時に監獄え引かれ夜といえば蚊帳もなし。蚊に喰はれて二十日余りで御帰りに成りたことも有り、又六十日ばかり監獄え引かれて何も食べず水も飲まずに御出に成ったることも有る。警察え引かれた事は幾度も数知れず。冬の寒い最中でも椅子え腰を掛けさせられて御通夜の事もあり。当番の警吏が居眠りをして願い御日い様の御上りあるのも知らず火を灯しあるについに御こたりてこれを消して帰りて警官が眼をさました事も有る。成れども誰をうらむと云う事無くある時は門え物売りに来る者あれば警察署におりながら買ってこれを官吏にこれをやり 皆一れつはわが子で有るといはんばかりの御けしきであらせられました。この大きなる心を皆々心として道を尽くす事ならばこわきあぶなき事は無い。危なき所でも神が楽に通してやろうという。それあんじる事は入らん心の働きが第一であろう。

 

隔て無き事

 

 この道は信心して居る者も又していぬ者も皆同様に思うて隔てせぬようにせにゃ成らん。そこで内も世界も隔て無き様という。それいかなる者も敵に思はんようこの心を題として信心せぬ者には理を聞かして信心させるように運ばねば内も世界も隔てないようとはいえようまい。

 

心の切替

 

 医者、薬や拝みきとうも易判断も皆これまで人間修理の為に神が教えておいたという成れどもこれは一時の理で神の教えておかれた理でその場だけは助かりたであろう。成れど心をなをす事で無き故に又跡え帰るかそのままなおっても又いつ借りがあらわれて身上に障るたとえていおうなら食の上のはいをおうも同じ事。一時は退くけれどもおはねば又直ぐに寄って来る。そこでこの食をば外えやってしまったならばそれおはずとも、はいは来ん様な者。このたびは神が表えあらわれて何か委細を説いて聞かするという。それ聞かして頂いた話の理に因って心を今迄と切替えて今迄の心ははいが食の様な物。これを外えやってしまって切替えた善心を又元の心とかえん様にすれば医者、薬、拝み祈とう易判断皆これは入らん。 

 

掃除にたとえ見分聞分の理

 

神様の御話しを人に論して人に取次ぐはその人の胸の掃除に掛かるのやから日々のほこり掃除も同じ事。掃除というてもそれ幾重の掃除も有ろうがな荒ぼうけ持ってする掃除も有ればしゅろぼうけを持って静かにする掃除も有る。その上ぞうきん掛けん成らん掃除もあればふうきん掛けん成らん掃除も有る

それ絹富きんで水もかけずに拭いておくこれも同じ内や。それぬり物細工のがく等にぞうきんかけたらどうなるか、又縁側や台所ふくのに絹ふきんでこたえ様かよく思案して見よ。人にさとすところも同じ事やで中等以上の人に中等以下の人も同じさとしではきけ様かきけ様まい。下等の中にも下等有り、上等の中にも上等有り、同じ悪いというてもその中に幾重の悪いも有る。重いも有れば軽いも有る。又多くの人の中には無学な者もあれば読み書きたっしゃな者も有る。聞き分け早い者もあればおそき者も有る。これを一つに思うてさとして居てはそれ結構な座鋪の掃除荒ぼうけ持って行き床の間の柱やふちえ破れつづりのぞうきん掛ける様な理が出るであろう。台所や縁側え絹ぶきん掛けて何にも成らん様な理も出るであろう。そこで若さ若気の理、としよりは老理学文有るか無いか聞き分け有るか無いかこれを見分け聞き分けが第一という。

 

りうづの訳

 

 人に先立ち理を聞き分けて所々のしんとなりて道を伝えるその者はこれをりうつというで有る。そこでりうづというたなら何ごとも皆掛かる理が掛かりたならば掛かりた理をほどいて居てさきえ伝えるがりうづの役それが出来るでりうづというねうちがあるのやそれ扇成らかなめという。かなめが解けたら先は用をなそうまいが木なら根という。枝がいか程しこりても根が倒れたらどう成ろうかこれをよく思案して大きな事情にはりうづもそれだけ たしかでなくば成らんいかなる理もりうづえ掛かるが理掛かった理を渡して行くがりうづという。

 

勇む基

 

 うたがうからさぐりが出るさぐるから又まどいがはくまどうからあんじる。あんじかけたらいずむであろう。そこで神の守護というは心通りの守護というそれいづむ心が神は嫌いこの悪気の世の中をいづまぬ様に陽気暮らしの楽しみをさしたい見たいとのおぼしめし。そこで心がいづめば神様の御守護又いづむから心いづまぬ様それ聞いた話しをうたがはず結構と思うて日々通るならそれ笑って暮らし楽しみて暮らすから善気と云う。よう気は勇む心そこでそばが勇めば神も勇むで。

 

夜る昼るの道

 

 夜る昼る分からん様では何も分からんでという。それ夜るの道といえばくらいであろう。昼の道とはあかるいであろう。そのあかるい道をくらいと思ってつまづくか知らん。付き当たるか知らんとあんじていてはどむ成らんで道を通るに通られんその心からとて踏みかぶったりつまずいたりせん成らん。夜るのくらい道を通りながらくらいとも思はず気をつけずにいた事ならどうであろう。何につまずくとも付き当たるともどこえはまるも踏みかぶるとも分かるまい。

 

そこで道を聞いて幾重の話しも聞かして貰いましても聞き分け無くかみ分け無くさとり無かったなら、丁度、夜るの道と昼の道と分からん様な者や。それでは何も分からんで聞いた話しかみ分けして飲み込んで日々通りた事ならば何もあんじもあぶ無きも無いという。今迄に教え来る修理肥の道というは丁度田んぼにある道の様な者や道と思うて通って行ってもしばらく行けば道はとぎれて又その間には溝もあれば掘りもあるあぶ無き所もある。そこでこれは一時の理、時々の理、このたび神の論する道は一時の道や時々の変わる道では無い。

 

末代たえず末代変わらずどこにもあぶ無きもあんじも無い。この道は昔から変わらぬばこの先も変わらぬ道、変わらぬのを天理という成れども今迄知らず知らず細道に迷うって難儀不自由をしていたのをこのたび聞かして下さる。話しの理に因ってこの大道うえ出たならば、誠あんしん日々通れるという。

 

借り物故思う様に成らぬ

 

 今迄の永い年限の内に知恵も仕込み字も仕込み、又その上に教えという者も神が入り込んで仕込み、幾重の道も皆教えて来たから、大抵の者に善し悪し分からぬ者は無いであろう。なれど九分九厘迄教えて来るけれども今一厘の所がこのたび教えるのやでそらどういう者なら借り物の理という。何様の事も皆たって居るけれどもたった一つ心で思う事が身に行なえんという。思う様に成らんというが不足やろこの不足無かったらそれで十分の道をそれどうしたら通れるやろう。

 

心は自由用自在

 

 それ借り物という理を聞き分けさえすれば善悪分かってあるから悪しき所え踏みかぶらず。神様の御恩を知りて日々通るからそこで誠一つの理に成りて来る。誠は天の理天の理成れば神様が受け取って下さるで自由用自在の働きを下さる。思う様の守護を下さるこれで十分というであろう。自由用自在はどこに在るとは思うなよ銘々精神一つの理にあるという。

 

 

将来の方針船にたとえて有る

 

 この世の中を渡るのは丁度船乗りが船をやる様な者にてかじの取り様で岩にも当たらず外の船にも行き当たらず方角も取り違えずにそれ思う所え付くことが出来る。成れどもかじの取り様が悪かったならば外の船に付き当たり岩に乗り上げたり方角も取り違えたりして付くべき所え付く事がでけぬそれ人間のかじは何がかじなら、胸三寸のかじを都合良く取って着くべき所え付かぬ付かねば成らん。

 

なれど人間はあだない者でその渡って行く道すがらで眼に物を見ては気を取られ耳に事を聞いては心をうばわれて心のかじの取り様に一心ん成れば良いがいつしか心を外えやってむちゃにかじの取り様をするからついにそれ外の方え行き当たって身をあやまり岩に乗り上げては身をやぶり、方角も何も分から無くなって仕舞ってから後悔して最初思って居た所えこれも着かれん様に成りてよぎ無くつまらぬ島え着いて最も船は運ばれてかじはきかん様に成って、そのままはてん成らん様うな者が沢山ある。

 

先に何を勉強するにも始めは何でも苦労の道を踏んで十分の修業をして親にも安心さし世けんからも善く出来たといはれる様うに仕様うと思うて掛かるけれどもいつの程にか身勝手出てなまくらに成り人の遊ぶを見ては遊び度なり世間のうはさを聞いて何かと心が迷い色々に心が変わってその間に年限も経って仕舞てついに始めの思惑の所え着く事できずして親に満足与える事もでけん様うに成る。

 

そんならというて始めの思惑の所え付けばよいが成れどもそいう者は九分九厘迄ありますまい。はなはだしき者は悪き道にまじはって生涯人に嫌われにくまれ嫌がられて通らん成らん様な道に付いて仕舞う者もある。皆胸三寸のかじの取り様が悪かった故跡で後悔してもおいつかんという。難儀不自由な道に成って来たのである。

 

この道を信心するも同じ事。信心の掛かり船のこぎ出しその船はやるべき道筋は話しの一つの理で分かってあの話し聞いてさとったらこれが道筋。この道行けばこうなるとちゃんとさきえつくし、又も聞かして貰い分かっている。されば聞いた道筋横目をふって行きそこなはん様、只聞いた通り通らん成らんという道中で船を割るのもしずめるのも皆銘々の胸三寸のかじの取り様という。

 

上下の隔

 

 この世人生れ出て居る所を見ればこれ程隔たりのある者は無い。高いというても色々なれば低いいうても色々である。若様、ひい様といはれて一人や二人はそばも離れず付き添え何に不足無く結構に暮らして居る者も有し又同じ結構に暮らしても体がよはいとかたべ物がたべられんとかそれ身に不足有って難儀して居る者もある。

 

又身上どこに不足無けれどその日その日がたべ兼ねて朝から晩迄あせ水かいて働いて、未だその上に夜なべ迄せんければ暮らす事がでけんというて暮らす者もある未だその上家内の者に身の不足あってせっぱつまりて居る者ある。それ楽の中にも難儀ある。難儀の中でも人様の世話にも成らずその日その日つつが無く暮らして行ける者もある。

 

不自由不自由というて居ても未だそ上の不自由の中の不自由もあるこれ位隔たりのあるはこらどういう者なら皆前生よりの因念という。前生前生にいかなる道を通りて来たかこれ人間には分かりがた無い。そこで皆々銘々に不足ばかりを云いて居て結構たんのうする者が無い。

 

神は見通し

 

 これよく思案して前生因念深き者あれば浅きもある良きもあれば、悪しきもある。悪るき中にも又良き理のまじりたるもある。その理が皆、今の世にあらはれきて結構と暮らす者もあり難儀の中の難儀もあるのやで、そこでそれ道が道なら通らにゃならん、通さにゃならん。親といえば、愛、情愛、故にいかなる意見もするのやで意見して意見を聞かぬそれ故についに立腹を受けねば成らん。

 

神の眼には、因念、事情良く分かりて有ってもこらいうて聞かしどうでも聞かされん。この理聞き分けねば成らん。それ、人間でもわが子にいかほど悪るともほかほか人えこの者はかくかくの事致します。これは親に背きますといかほど腹立ててもいえることではあろうまい。神にしても同じ事。