日々の通り方・

明治八年六月十四日

【心が晴ればれしませんので】と申し上げたところ

「日々は、喜んで通らしてもらうのやで」

「喜べないようなひもあろう、喜びに変えて通らせてもらうのやで」

「日々通らしてもらう心の使い方・持ち方、よう思案してくれ」

「心の使い方によっては、徳にもなれば埃にもなるで、真実や誠やと思って通っていても、その真実誠の中に埃がまじるのや、それを誠の中の埃と言うのやで」

「心の使い方というても、我が身思案からの通り方、人に助かってもらう、喜んでもらう通り方があるのや、ちり一つ拾っても誠、大きな木とり片付けるも真実といえん場合もあるで、日々よう思案してくれ、誰でも通れることやで、心の持ち方、思い方が大事やで、心の思い方というても人間はあざないものであるから、都合のいいように考え、又は思い、我が身に都合の悪いことはそうはでけんというてしまう。そんなことで道はつくはずがない、都合のいいことも、都合の悪いことも心一つにおさめて通ってくれ、神様がきっと連れて下さるで、一つも心配いらんことやで」

「日々通る中にどんな中もあろう、難儀な中、むつかしい中、そのならん中を喜びに変えて通ってくれ、その中に御守護がいただけるのや、無理と思うてはいかんで、無理と思うやないで、無理と思えば無理になってしまうで、心通りの御守護下さるのやからさらさら思うやないで」

「喜びに変えて通って行く中に、あゝあ結構やった有難かったと思える日がかならずあるのやで、その日を楽しみに通ってくれ、今の苦しみは先の楽しみやで、日々を喜んで通らしてもらいなはれや」

 

返事・神の子について

明治八年十一月二十一日

「人に呼ばれたらすぐにハイと返事をするのやで、あれやこれやとうけこたえするのやないで、ハイと返事をしなはれや」「呼ばれた時ハイと返事をせんで、今外へ行くところやなんて返事をしたらいかんで、人間はなあみんなそんな返事をするのや、それでいゝと思っている、誠の中の埃やで」

「蛙の子はお玉やで、これはわかっているやろ、お玉は自分は蛙の子やと仲々納得できないやろ、蛙とお玉は全然違うからなあ、お玉は何時までもどじょうと一緒にいたいと思うやろ、それと同じような事が人間にも言える」

「人間はなあ、人間として生きる道は考えて通るだろうが、神の子としての道が本当に通れるだろうか、こゝのところよう思案してみい」

「くらいと思う前に、まず灯りをつけることを考えにやいかんで」

 

夫婦に対しての御話

明治九年一月十二日昼頃

「男・女のへだてないと言うても、男は男、女は女やでへだてないと言うのは神様の御守護に男も女もへだてないと言うことやで、神様の御守護と言うこと忘れたらいかんで」

「男も女も同じだからと言うて、男が女のようになり、女が男のようになってしもうたら、道がのうなってしまう、何と言うても男は天や、女は地やで、天と地では大分ちがう、こゝのところよう思案しなけりゃいかん」

「夫婦が仲よう通らしてもらうにはなあ、どんなことあっても女は地やから天をたてて通らしてもらうのやで、天をたてて通らせてもらわにゃ地の理はなくなってしまう。地はどこまでいっても天にはとどかんもの、こんなことはわかっているやろ、女が天にてを届かそうとするから、けがをするのやで、女は台やで、台は大きなけりゃいかん。台が小さいとひっくりかえるで」

「天のあるところ地がなけりゃいかん。この理よう思案しなはれや」

「女の通る日々の心使いは男より難しいで、ものゝ言い方・ものゝ聞き方、することなすこと一つ一つが男と違う。男は男の通る道、女には女の通る道があるで」

「女の通る日々の心づかいはなあ、むつかしいものや、女は常に嫁に行くときのような心を持って、その心忘れずに日々通らしてもらえればよいのやで」

「言うことによく注意して、とげのたゝぬようやさしく言わにゃいかん。女というものは、ついじゃけんなものゝ言い方をするものやで、男が聞いたら、あれでも女かいなあと思われるようなことやったらもう女ではないで」

「女の人は、ものゝ見方でも半分しか見ないものや、ものは両面見なけりゃいかんのや」

「障子一つしめたりあけたりするのも坐ってするものや、その動作は美しく見えるものやで」

「女は男と違いぐちの多いものや、心で申し訳ないと思っているうちはいゝけれど、それが口に出るようになってしまうとぐちになるのやで、不足の心持つのも男より女の方が多い、夫婦の中で妻が不足の心を持って通っていると、その理は夫に移っていくで、女は常にやさしくなけりゃ女とはいわれんで、地のやさしい心が天をたすけていくのやで、こゝのところよう思案しなけりゃいかんで」

「女の人にずいぶん無理を言うようだが、決して無理を言うているのやないで、女の心一つで家も国も滅んでしまうようなことになるのやから、女は心して日々通らしてもらうのやで」

「妻は夫にさからわぬよう、何でもはいはいと言うて夫にしたがい、低い心で通らしてもらうのやで、低い心で通らしてもらえれば、あとは神様がつれて通って下さるで、なにも心配はいらん、はいはいと言うて通り、損をするような考え持ったらいかんで」

「女は男に対してよく口ごたえするものや、その口ごたえがいかんのやで、それを言わずに心に治めてくれにゃ女とは言われん、こゝのところよう心に治めておきなはれや」

「神様は、男も女もへだてなくつれて通って下さるのやから、心大きく持って日々を通らにゃいかんで、へだてなくつれて通って下さるのは、男と女が同じということではないで、御守護は同じであっても、男には男の理があるで、女は女やで、こゝのところよう思案しなけりゃいかん」「女は男に無理を言われるとすぐにつのを出すものや、つの出して通ったらいかん、何でも心に治めて通らしてもらいなはれや」

「日々心に治めて通らしてもらえればこそ、女としての徳がつめるのや、女としての徳というのはなあ、内うち丸く治まるという理になるのやで、女の心の使い方がおさまる理にも、おさまらぬ理にもなるのや、治めて通らしてもらうのが女としての第一の道や、無理を言うているのやないで、女の通る道はむつかしいものやからよう心して日々通ってくれにやいかんで」

「男の人にはなあ、神様のお話を聞いてもらわにゃならん、女の人には女の道をよう心に治めてもらわにゃらん、女の道というは一口で言えば真実の道やで、真実とは低いやさしい素直な心をいうのやで、低いやさしい素直の心とは、女の人のためにあるような言葉や、男には低い心、親には素直な心、子にはやさしい心になって、日々通らしてもらうのやで」

「女の人は身びいき身勝手の多い心をつこうて通る、人にもたれすぎる、親に主人に子供に一生もたれて通ってしまうような日々を通る」

「女は常に、男という理に対してつとめさせてもらうのやで、その心忘れんよう日々通りなはれや」

「女の人は津ねに真実の心で通らしてもらうていたら、必ず人はついてくるものや、それが女の人の真の通る道やで」

「人にあゝさせよう、こうさせようと思う心で通っているから、自分の身がたゝなくなるようなことになってしまう、こゝのところよう考えて通ってくれ」

「この道は人にさせる道やないで、めいめい一人一人が自分からつとめさせてもらう道やから、人がどうのこうのと言うやないで」

「自分がつとめさせてもらう時でも、人にさせようと思う心持ったらいかんで」

「男の人に対しての心の使い方によって、その理のあらわれるのは、お産の時にようわからしてもらえるのやで、お産は日々の心使いのあらわれではない、お産は病ではない、女は誰でもが通る道なのやから、一つも心配ないらん、だが男に対しての心の持ち方考え方が、どのようになるやらしれんで、そのあらわれてくるのは女の病やで、女がその病で倒れるようなことやったら、神様に対して申し訳ないで」

 

明治十年二月三日夕刻

 

「日々に人をたすけさせて頂くことやで、口で人をたすけるというが、人をたすけさせて頂くことはむつかしいことやで、はじめは人をたすけさせて頂くのやと思っていても、日がたつにつれて守護が見えてくると、自分がたすけてやるのだという心になってしまう。その心がいかんのや、自分がたすけるのではない、神様がたすけて下さるのやで、神様がたすけて下さるというても神様はなあ、たすけさせてもらうものの心にお働き下さるのやで、たすけるものはたすけさせてもらう喜びを持つのや、これが恩返しになるのやで、人をたすけさせてもらうことは神様への御礼にもなるで」

「お助けさせて頂くのに、常に神様のおともをさせて頂く心でなけりゃいかんで、自分が助けるのやないで、神様がたすけて下さるのやからその心忘れんようにしなはれや」

「人をたすけさせてもらうには、我が身どうなってもいう心にならにゃいかんで、我が身どうなってもという心が恩返しになるのやで、これは自分一人の道ではないで、末代までの道、末代に残す道をつけてくれ」

「人にお話をするにはなあ、我が身が心にしっかりとかりものということを治めておかなけりゃいかんで、かりものということをよく教えてやってくれ」

「おたすけをさせて頂くのに、たすける者が誠の心でかりものという理しっかり心に治めておればあとは神が働くほどに、何も案じ心配ないらんで、誠の心でお話させてもらうのやで、これが恩返しになる道や、楽しんでつとめさせてもらいなはれや」

「たすけてもらう者がかりもということ心に治まれば、どんな病でもたすけてもらうことできるのやで、心配ないらん案じ心もたぬよう」

「恩返しになる道、日々通らせてもらうてこそ結構にさせてもらうことできるのやで、勇んで通らにゃいかん」

「人をたすけさせて頂くには、真実の心になって常に低いやさしい素直な心でお話させてもらうのやで、相手の心をたすけさせてもらうのやで、かりものという理心に治まれば治まっただけ御守護頂けるのや、かりもという理しっかり心に治めにゃいかんで」

「人をたすけさせて頂くというは、恩を返すことになるのやから、何時の日にもいつの時にもその心で通らにゃいかんで」

「をやの声聞かしてもろうてその通りつとめさせて頂くところに恩が返せていくのやで」

「をやの声たよりないと思うていたら、神様はお働きくださらんで、神様が働いて下さらなかったら、日々は通れないのやで」

「をやの声一つがたよりやで、その声そのまま受ける心に神様が働いて下さるのや、神様に働いてもらうには、かりものということをよく心に治めて通らにゃ神様に働いてもらえんのや、人間心をすてて通らしてもらわにゃいかんで」

「をやの声聞いて通っていたら、どんな中でもつれて通って下さるのや、こわいあぶない道はないで、神様がつれて通って下さるのやからなあ」

「人間心をすてて我が身どうなってもという心で日々通らしてもらうことができるなら、どんなたすけもして下さるで、それが真実のあらわれや、けっこうやろ」

「真実の心で日々通らしてもらえば十分の理を何時のときでも見せて下さるで、人は何時でも真実でなけりゃいかんのやで」

「ああもしたい、こうもしたいと思う心あるやろう、その心をそなえるのや、をやのいうなりするなりにしてもらう心、それを素直という、何でもつとめるという心低い心と言う、何でもハイという心やさしいという」

「大きい心というても人間思案はいかん、人間思案ではなんぼ大きいというても大きいとはいえん、人間思案は小さいもの、あれや、これやと考えて、人間心でなんぼ思案したとてせんないこと」

「ああさせたらこうさせたらと思う心がいかん、その心が人間思案やで、大き心になったら人間思案はうかばんもの、大き心でたすけさせてもらうのやで、かりものということよくわからせてやるのやで、人にわからせる前に身がかりものということがわからねばなんぼ話したとてわかってもらえん、ここのところよう思案してくれ」

「日々通らしてもらうに、まず口の聞き方ものの言い方に気をつけにゃいかんで、それからなあ、することなすことに心を使うことやで、不足の心で通っていたら何にもならんで、神様の人間をおつくり下されたお心よう思案しなはれや、これで日々通っている心使いがちがっていないかどうかよう思案するのやで」

「御恩返しをさせて頂くには、まず心をしっかりと定めて、かりものという理を治めてたすけさせて頂くのやで」

「おたすけさせて頂く時の心まちがわぬようにしなけりゃいかんで、お話するにもかりものということだけお話させてもらえりゃけっこうなのやから、誰にでもできる話やで、自分我が身がその心にならにゃいかんで、よう思案させてもろうて日々を通らせてもらいなはれや」

「親の心にそわずして、親の心ころして通る者、人間心で通る者、勝手な道を歩む者、なれど一度はゆるす、二度はたすける、三度はゆるさん、親という理忘れぬよう、親の心にそうて通らにゃいかんで」

「つくすというは、金や物をつくすだけをいうのやない、身上かして頂いているという恩を報じる心をつくすのが、つくしというて果たしになるのやで、かりものという理がわからねばつくしようがあるまい、だんだん恩がかさなるばかりやで、この理よう思案して、つとめなけりゃいかんで」

 

明治十五年四月五日

 

「かりものという理心に治まったら、どんな中でも神様はつれて通って下さるのやで、いくら口でといたとてその心にならにゃ何にもならん、心に治まったらない命でもつないで下さるで、心配ないらん、日々通る心の持ち方がむつかしいのや」

「日々通る心の持ち方は自分勝手な心使いでは御守護は頂けないで」

「気ずい気ままな心使いで日々通っていると、頂ける御守護も頂けない、こんなことは分かっているやろ、ここのところよく思案してくれ」

「かりものということよく心にしっかり治めてくれ」

「かりものという事は、神様からこんな結構な身体をかりているということをよく心に治めることやで、これが分かればそれでよいのや、よく心に治まれば、どうして御礼をさせて頂こうかと思えてくるで、その思えてきたことをそなえさせてもらうのや」るで、その思えてきたことをそなえさせてもらうのや」

 

明治十五年九月十二日

 

「日々に埃の心つこうて通るから御守護が頂けないのやで、人の心にいやな思いをさせる、何でもないように思うて通っているやろうが、それは人の心をころしているのと同じこと、目に見えない埃日々に積んでいったら身上にもなろう、事情にもあらわれてもきょう、みな我が身が苦しむことになるのやで」

「日々に通らせてもらうには、むつかしいことは何もない、ただ真実の心で、かりものという理をしっかり心に治めて、ありがたいけっこうやというて思うて明るい心で通ってくれ、神様がかならず御守護下さるで」

「日々に朝起き、正直、働き、この三つを心において通らせてもらうのやで、けっこうな日々が通れるで、かりものということわからねばこの道は通れないで」

 

明治八年十一月二十一日

 

「神様のお話は守らしてもらわにゃいかん、守らんよって御守護が頂けないのや、神様のお話を守らしてもらうから身が守られるのやで」

「心の守りが身の守りになるのやで」

「神様のお話はむつかしいことないのやから、すぐにでもさせてもらはにゃいかん、守るから守られるのやで、わすれたらいかんで」

「守るということは、聞かしてもらうたことだけでなく、自分が定めたことも守らしてもらわにゃいかん、定めたこと、守らんようだったら守って頂けなくなるだけのことや、守って頂けなくなるということは、身上を守ってもらえないことや」「人間同士の間でも守るからお互いに守られるのや、約束したら守らにゃいかん、人の真実を無にするようなことしたらいかん、人を待たせるということは、人をしばることと同じやで、人をしばることは物を取るよりわるい、何でもないように思うているかもしれないが、人の真実無にしたら自分が守ってもらえんようになるで」

「時は大切にしなけりゃ行かん、時は守ることによっていかされる、守らない時ならいらないやろ」

「守るということは、人の真実やで」

「真実の心で日々通らしてもらわにゃいかん、真実やったら神様は守って下さるで、神様に守ってもらっておれば日々は安心やで」

 

明治十年二月三日

 

「おたすけ頂くには、心定めがかんじんやで、心定めんことには自由用はない、定めた心は動かしてはならん、動くようでは定めたとはいえん、この理よう思案してくれ」

「定めた心の理に自由用はあるのや、その定めた心に神が働く、一時の定めでも守護頂ける、だがそれは神様の御慈悲やで、お慈悲によって自由用かなえさせて下さったのやから、いつなんどきもとにもどるやらしれんで」

「定めた心かわらなかったらいついつまでも自由用かなえさすで」

「一時の定めでも御守護頂けるからというて、いつもいつも同じような心で通っていたなら、頂ける御守護も頂けなくなってしまうで、人間の中でも同じようなことくり返していれば、いつかは離れてしまう、神様かて、一度はゆるす、二度はたすける、三度はゆるさんとお教え下されているのやから、よう思案しなけりゃいかんで」

「人をたすけさせてもらうということは恩返しになり、徳をつむことにもなる、前世からの悪因縁も切って下さるのやからどれだけ結構にさせて頂けることやわからんで、せいだしてたすけさせてもらいなはれや」

 

明治十七年十月十一日

「ああもしたい、こうもしたいと思う心もあるやろ、その心をそなえるのや、親のいうなりにしてもらう心、それを素直という、何でもつとめるという心ひくいという、何でもはいというける心やさしいと言う、この三つ誠真実やで、誠真実なら何でも自由用という」

 

 

 

 

 

明治十七年十二月三日

「親の心にそうて通る者、日の中水の中でもつれて通るほどに、人間心だすやない、もたれる心に神がはたらくのや、案じない」

 

明治十八年二月四日

「自分の身どうなってもという心で親にそいきる心、この心で通りたなら十分の理、十分の理とは結構づくめやで」

 

明治十八年三月十四日

「親の心ころして通る者、人間心で通る者、勝手な道をあゆむ者、なれど一度はゆるす、二度はたすける、三度はゆるさん」

「定めさせる心も、定める心も同じでなきゃならんもの、定めさす心はかりものということほかにないで、よくわからせるのやで、定める心もかりものということよく心に治め、その心で日々通らせて頂くことを定めるのやで、その心定まったならどんな中でも自由用自在やで」

「心定めさすのはなあ、あれせいというのやないで、自分の心に思ったこというたらいかんで、神様のお話をさせてもらうのやで、神様のお話というは、かりものということしかないで、このかりものということ、心にしっかり定めさせてやってくれ」

「定めさすというはそれだけや、他に何もないで」

「定める、定めさすとよういうておるが、定めさすということは、かりものということより他に何もないで」

「かりものという理が心に治まれば、あとはつれて通ってもらえるで」

 

 

 

 

元始まりの話・

天理王命明治十年十月二十五日

「さあ八十の年をまちかねたまちかねた、この話はなあ、聞きながしときながし、よく心に治めてくれにゃならんで、とりちがえのないよう、あんな話と思うてきいていたらいかんで、あんな話と思うてきいていたらあんな話になってしまう。人間元の理がわからなければ何もわからない、何も知れようまい、心してきかにゃいかん、心によう治めてくれ」

 

明治十年十月二十八日

「人間元とはじまりの話しよう心に治めねば子をそだてることできようまい、子をそだてることできぬようではをやの恩はかやせまい。子をそだててこそをやの恩はかえせるのやで」

「お産は病ではない、だがお産から色々と病を引き起こすようなことがもしもあったら、女として女の道がたっていないからや」

 

 

 

 

明治十年十一月二日夕刻

「日々通る中に心にもない通り方をしてはいかんで」

「この道は人にさせる道やないで、めいめい一人一人が自分からつとめさせて頂く道やから、人がどうのこうのというやないで」

「人間は(女の人は)自分がすると、人にもさせたくなるものやが、なんぼ人にさせようと思うてさせてもなにもならん、人がさせて頂かなけりゃと思う心になるようにしてやってくれ」

「それには時というものがあるで、時ということよく心に治めておかにゃならん、時をはずして何をしてもなにもならん」

「種をまく時には種をまかにゃ行かん、さむいあついというて、今いそがしいからというて、時をはずしたら、いい芽はでてこないで」

「時をはずさぬよう、よく教えてやってくれ」

「自分がつとめさせてもらう時でも、人にもさせようと思う心持ったらいかんで、人にかりものということわからせてやったらつとめてもらえる。なんぼさせようと思うても、かりものということがわからねば何にもならん」

「めいめいが運ばしてもらい、つとめさせてもらうておるうちに人はついてくるで」

 

 

 

 

明治十二年七月五日夕方

「この神様はなあ、元の神といい実の神様やで、元の神様とはおがみきとうの神やない、元こしらえた神というて、もともとなにもなかったところから、人間をはじめ、すべてのものを造りはじめられた神様や、実の神というのはなあ、真実の神ということやで、すべてのものをお造りになったというだけでなく、それ以来、常に変わらず不思議なお働きによってあらゆるものを育て、温かい恵をもって御守護下される神様や、人間をお造り下された思し召し通りに通らせて頂くことができるようにと、じきじきにこの世へお姿をあらわされた真の神やで」

 

明治十八年九月二十四日

「おやという理頂くなら、なによのことも受け取るで、受け取る中に自由用という理があるのや」

明治十八年十一月十四日

 

「親の声をきいて、そのまま受ける心に神が働くのや、人間心できいて、あれやこれやと思案するなんぼ聞いても同じことやで、実をもってきかにゃならん、親の声きいてたよりないと思ったらたよりなくなる。親の声も神の声も同じことやで、あんじなきよう神がつれて通るほどに」

明治十九年十二月二十日

「をやは苦労の中、苦労とせずに通ってきた。この理よう思案してくれ」

 

 

 

しこみ・つくし・おたすけ

明治十年十月二十八日

 

「人間もと始まりの話よう心に治めねば子を育てることできようまい、子を育てることできぬようではをやの恩はかやせまい。子を育ててこそをやの恩は返せるのやで」

「お産は病ではない、だがお産から色々と病を引き起こすようなことがもしもあったなら、女として女の道がたっていないからや」

 

明治十年十一月三日朝方

「人にああさせようこうさせようと思う心つこうて通っていたら、我が身が立たなくなるで、人にさせる道やない、自分からさせて頂く心にならにゃいかん、自分がつとめさせてもらうから人がついてくるのやで」

「つとめるというても人にするのやない、神様につとめさせてもらうのやで、神様にやで」

「人間はなあ、人が人をどうするこうするということはできないのやから、なんぼさせようと思うていても動かすことできん、だから自分からつとめさせてもろうて、その理をうつしてやるよりほかないで、自分がつとめさせてもらうという理ほど結構なことないで」

 

明治十年十一月二十三日

「つくすというは、金や物をつくすだけをいうのやない。身上かして頂いてるという恩を報じる心をつくすのがつくしというて果たしになるのやで、かりものという理がわからねばつくしようがあるまい」

「人間心にとらわれぬようお話をさせてもらうのやで」

「定めさす定めさすというても、自分の心に浮かんだことを浮かばしてもろうたと思ってお話をすることがいかんのや、定めさすことは、かりものということよりほかに何もないのやから、よくわかるように話してやってくれ」

「かりものということがよくわかれば、どんな病でもすぐに御守護下さるのやから、おたすけには、かりものということ、神様から身体をかしてもろうておるという理を、人間思案にとらわれず、ただただありがたい結構やと思うてお話をさせてもらいなはれや、おたすけさせてもらうに一番大事な心づかいやで」

「かりものというは、神様から身体をかして頂いているということなのやから、この理をよう思案させてもらうのやで」

 

明治十二年三月四日

 

「つくすというは、金や物をつくすだけをいうのやない、身上かして頂いているという恩を報じる心をつくすのが、つくしというて果たしになるのやで、かりものという理がわからねばつくしようがあるまい、だんだん恩がかさなるばかりやで、この理よう思案して、つとめなけりゃいかんで」

 

明治十七年二月四日

「人をたすけさせて頂くには、日々の心づかいが大事やで、日々の心づかいによっては、たすけさせて頂くことができるような時にでも、たすけさせて頂くことできないで、この理よう思案してくれ」

「さづけという理は、めいめいの心にあるもの、日々の通る心づかいがあらわれるもの、心の使い方によって理のあらわれが変わってくるで」

「さづけの手ぶりがきくのやない、理がきくのや」

「日々通らしてもらうには、人のあしきを言わぬよう、人のあしきを思わぬよう、人のあしきを思わせぬよう、この三つの心が大事やで、この心がけ一日に一回つこうても、三日間さづけの理はとまるで」

明治十八年三月二十一日

「ならん中、通りにくい中、その中を通るのが道や、運びにくい中はこび、果たしにくい中はたしていくところに道がつく、あの中でもよう通る、ようつとめるなあと言われるところまで、道をつけるのや、その道はらくらくに歩ける道」

 

明治十年二月三日夕刻

「日々に人をたすけさせて頂くことやで、口で人をたすけるというが、人をたすけさせて頂くことはむつかしいことやで、はじめは人をたすけさせて頂くのやと思っていても、日がたつにつれて守護が見えてくると、自分がたすけてやるのだという心になってしまう。その心がいかんのや、自分がたすけるのではない、神様がたすけて下さるのやで、神様がたすけて下さるというても神様はなあ、たすけさせてもらうものの心にお働き下さるのやで、たすけるものはたすけさせてもらう喜びを持つのや、これが恩返しになるのやで、人をたすけさせてもらうことは神様への御礼にもなるで」

「お助けさせて頂くのに、常に神様のおともをさせて頂く心でなけりゃいかんで、自分が助けるのやないで、神様がたすけて下さるのやからその心忘れんようにしなはれや」「人をたすけさせてもらうには、我が身どうなってもいう心にならにゃいかんで、我が身どうなってもという心が恩返しになるのやで、これは自分一人の道ではないで、末代までの道、末代に残す道をつけてくれ」

「人にお話をするにはなあ、我が身が心にしっかりとかりものということを治めておかなけりゃいかんで、かりものということをよく教えてやってくれ」

 

明治十年十一月二十三日

【真実の心・かりものの理】

「日々通るには、真実の心になって、かりものという理しっかり心に治めて、親の心にそってつとめさせて頂くのやで、その心になって通れたなら自由用の守護がいただけるのや」

「真実とは、弱いもののように思うけど、真実ほど強いものはないで、人が人をうごかすこと難しい、なれど真実なら神がうごかす」

「人を助けるのも真実、その真実に神がはたらくのや」

「人が人を助けるのはむつかしい、なれど真実なれば神が助けさす」

「真実の心とは、低い・やさしい・素直な心を言うのやで、口でなんぼ低い・やさしい・素直な心というていても、その心にならなけりゃなんにもならんで」

「日々通っている中に、我が身は誠やまことやと思うて通っていても、誠の中の埃という道もあるで、よう思案して通らしてもらうのやで」

「日々真実の心で通らしてもらえたなら、家々むつまじゅう暮らさせて頂くことができるのやで、めいめい我が身一人がその心にならせてもらいなはれや」

「なんぼ真実やと思うて通っていても、心に真実なくばなんにもならん、目にもみえん、形にもあらわれんもの、心にその理なくばならん、人の心にある真実は神が受け取って下さるのやで」

「低いやさしい素直な心、いくら自分がその心やというても、人に与えなけりゃわからん、人に与えるというは人に喜んでもらう、人に助かって道を通ることやで」

「この心で日々通れたなら、どんな中でもつれて通るほどに」

「人間はあざない者であるから、日々その心で通らしてもらわにゃいかんと思いながらも、身びいき、身勝手な心使いから、我が身さえ、我が身さえと思い、我が身さえよければ人はどうなってもというような日々を通ってしまう。それでは守護頂けるはずはないで」「我が身どうなってもという心にならなけりゃ真実の心は生まれてこんのや、案じ心を捨てて人の喜ぶよう人の助かるような道を通りなはれや、人助けたら我が身助けてもらうことができるのやで」

「人間はなあ、みんな神様から身体をかりているのやで、それを自分のもののような心で日々使うて通っている。それでは申し訳ないのやで、自分のものと思って使うて通るから、いただける守護もいただけなくなるのや、この理よう思案してくれ」

「日々に通る身上についても心の持ち方はなあ、人間はいやなもの見るとすぐにいややなあと思い、いやなこと聞くといややなあと思う、その心がいかんで、その時の心の使い方が大切やで」

「かりものという理は日々通らせて頂いている心の中に、常にもたせてもらっていなけりゃならんのやで」

「いやなもの見、いやなものを見せられた時、いややなあと思う前に、ああ見えてよかった、目が不自由でのうてよかった、有難い結構やと思うて通らしてもらうのやで」

「いやなこと聞いた時でも同じこと、いつの日いつの時でもそういう心で通りなはれや」

「身上事情でなやみ苦しむ時、かりものという事をすぐに心に思うわにゃいかんで、かりものという理心に治まれば、どんな中でも助けて下さるのやで」

「かりものというは、常に借りているということを忘れずに、一日一日を有難い結構やと思うて通らせてもらのや、その心やったらどんなあぶないい中も、大難は小難、小難は無難に連れ通って下さるで」

「身上の中でも事情の中でも、かりものという理一つ心に治まれば、ない寿命もつないで下さるで、人間力でどうにもならんもんでも、治めて下さる守護が頂けるのや」

「をやの心にそわしてもらうには、我が身思案を捨てにゃいかんで」

「をやの心にそうて通るもの、火の中水の中でもつれて通るほどに、人間心だすやない、もたれる心に神がはたらくのや、案じない」

「かりものという理、しっかり心に治めて日々通ってくれ、心に治まればどんな道でも案じない、案じ心持たぬよう」

「我が身思案から、ああもこうもと心をつかう、人間心で聞いてあれやこれやと思案する、なんぼ聞いても同じことやで、そんな心やったら、をやの心にそうことできん」

「をやの声聞いたら、そのまま受ける心に神が働くのや、をやの声聞いて、たよりないと思うたらたよりなくなる、をやの声も神の声も同じことうやで、あんじなきよう神がつれて通るほどに」

「をやの心にそうて通るなら、どんなことでも受け取るで、受け取る中に自由用という理があるのや」

「自分の身どうなってもという心で親にそいきる心、この心で通りたなら十分の理、十分の理とは結構づくめやで」

「親の心にそうて通るなら、ならん中、通りにくい中、その中を運び、果たしていくところに道がつく、あの中でもよう通る、ようつとめるなあと言われるところまで道をつけるのや、その道はらくらくに歩ける道」

「をやの心にそうことできず、勝手気ままな心づかいから、親をつぶして親にさかろうて通るから身が立たなくなる。この理よう思案してくれ」

「親の心にそわずして、親の心ころして通るもの、勝手な道を歩むもの、なれど一度はゆるす、二度はたすける、三度はゆるさん、親という理忘れぬよう、親の心にそうて通らにゃいかんで」

 

明治十四年二月七日~八日

「日々通らせてもらうていても、いろいろ人の通る道はある。その中で、神様に喜んでもらう道を通るのやで、神様に喜んでもらう道は真実だけや、真実とは、低い、やさしい、素直な心をいうのや、自分で低いと思うているうちは低くはないで、やさしいというても、素直というても同じこと、人にあの人は真実の人やと言われるまでの道を通るのやで」

「素直というてもなあ、人の心をひくような素直は何にもならん、神様に喜んでもらえるような素直というのはをやのいうなりするなりにしてもらう心にならなけりゃいかんで、やさしいというても口だけでは何にもならん、はいというたらすぐ行ってこそやさしいのやで、そうして何でもつとめさせてもらう心を低いというのやからその心で日々通らにゃいかんで、口だけの真実やったら神様はなあ、喜んで下さらんのや」

「神様のお話をよく聞かしててもらうのやで、神様のお話とはをやの声や、をやの声というていいかげんに聞いてはならん、しっかり心に治めなはれや」

「真実の心というてもきのう話をしていったのや、丸ごとでなきゃいかんで、丸ごととは全部や、一切を引き受けさせて頂きますという心や、庭の掃除一つさせて頂くのも自分我が身一人一人がさせてもらうのや、多数の人でやったら自分の徳にはならんで、だがなあ、徳をつましてもらうという心はいかん、これは我が身のためやからなあ、何でも人のため、我が心は人の喜ぶよう、人の助かるような道を通ればよいのやで、我が身のことは何にも考えんでよいのや、これが丸ごとの真実やで」

「人に腹を立たせて下さるな」

「親の心にそうというても形だけやったらいかん、心をそわして頂くのやで、どんなにはなれていても心は親に通じるものやで、心をそわしてもらいな晴れや」

「親の心にそわしてもろうて日々通っていたら、身上事情で苦しむようなことはないで、だが因縁なら通らにゃならん道もあろう、しかし親の心にそって通らしてもらっているのなら、何にも身上や事情やというて案じることはないで、心倒さんように通りなはれや」

「この世に病というはさらにない、心の埃だけや、心を倒すのが病、倒さんのが身上というて花や、人間思案で通るから倒れるのや、人間思案だすのやない、人間思案すてるには親の心だけがたよりやで、親の声なんでも素直に聞かしてもらわにゃいかんで」

「かりものという理知らずして日々通っていると、身上にお知らせ頂いてもなかなか御守護頂けないで、親の心にそうことができんかったらどんなことで苦しい道を通らにゃならんかもしれん、そんな道を通っているなら何も神様のお話はいらん、神様のお話はかりものということをよくわからして頂くために聞かして頂くのや、親の心にそわして頂くためにきかしてもらうお話やで、お話を聞かしてもろうたときながら勝手な道を歩むようであったら、御守護やりとうてもやれへんやないか、ここのところよう思案してくれ」

「神様のお話を聞かしてもろうているのやから、日々喜び勇んで、かりものという理をしっかり心に治めて、をやの声をしっかり聞かしてもらい。親のいう通りにさせてもろうたなら、どんな御守護もお与え下さるで、いらんというてもきっと下さるのやから、御守護頂けんというていたら申し訳ないことやで」

「をやのいう通りにせんで御守護頂けないというて日々通っている。そんなことで人に喜んでもらう。人に助かってもらう道が通れるか、よう思案してみい。申し訳ないと思うたらすぐに心いれかえてつとめなはれや、御守護下さるで」

 

明治十五年四月五日

「かりものという理心に治まったら、どんな中でも神様はつれてとおって下さるのやで、いくら口でといたとてその心にならにゃ何にもならん、心に治まったらない命でもつないで下さるで、心配いらん、日々通る心の持ち方がむつかしいのや」

「日々通る心の持ち方は、自分勝手な心づかいでは御守護頂けないで」

「気ずい気ままな心づかいで日々通っていると、頂ける御守護も頂けない、こんなことはわかっているやろ、ここのところよく思案してくれ」

「かりものということよく心にしっかり治めてくれ」

「かりものということは、神様からこんな結構な身体をかりているということをよく心に治めることやで、これが分かればそれでよいのや、よく心に治まれば、どうして御礼をいさせて頂こうかと思えてくるで、その思えてきたことをそなえさせてもらうのや」

明治十七年十月十一日

「ああもしたい、こうもしたいと思う心もあるやろ、その心をそなえるのや、親のいうなりするなりにしてもらう心、それを素直という、何でもつとめるという心ひくいという、何でもはいと受ける心やさしいという、この三つ誠真実やで、誠真実なら何でも自由用という」

親明治十七年四月十二日

「神のこしらえた世界、人間である。神一条の道を通させたさ、陽気ゆさんが見たいゆえー人間心で通る人間もあるー神のざんねん、親の心はたすけたい一条やで、人間思案をすててさしず一つの理をもって、人間思案をすてて通ったら、身上事情で苦しむようなことはない」

 

明治十七年十二月三日

「親の心にそうて通るもの、日の中水の中でもつれて通るほどに、人間心だすやない、もたれる心に神がはたらくのや、案じない」

 

明治十八年六月八日

「人間心すてたら理は立つのや、人のような心つこうて通りたがる、それで理のたつはずがない、情をつぶして、ころして親の心そいきるのや、それで情のつぶれるような事はない。案じ心がいかんのや、よう思案して通れ」

明治十八年八月三日「親をつぶして、親にさからって通るから身が立たなくなる、この理よう思案してくれ、親という理わすれぬように」

明治十八年九月二十四日「親という理頂くなら、なによのことも受け取るで、受け取る中に自由用という理があるのや」

身上事情明治十八年五月三日「身上事情を病というやない、病という日々の心のあらわれ、身上事情は前世もあるのや、病というてさらにない、心の埃だけや、心倒すのが病、倒さんのが身上というて花や、人間思案で通るから倒れるのや、人間思案を捨てたらそのまま通れる。人間思案をすてるには、親の声だけがたよりやで、をやの声なんでも聞かしてもらわにゃいかん、無理と思うな思うなきっとつれて通るほどに」

「身上事情の中、勇んで通るから神がまもるのや、もうあかんと思うのが人間心やで、人間心すてにゃ身上事情の中は通れんのや」明治十八年七月二十日「身上事情の中、勇んで通るから神がまもるのや、もうあかんと思う人間心やで、人間心すてにゃ身上事情の中は通れんのや」

「身上事情の中は通りにくいやろ、その中を通るのや、通れんというやろ、もたれる心あったら通れるのや」

明治十八年八月三日

「身上事情は結構やで、身上事情のうては道は通れんのや、その中勇んで通るのや、親の声一つがたよりやで、をやという理わすれたら道はないのや」

人間思案明治十八年二月四日

「自分の身どうなってもという心で親にそいきる心、この心で通りたなら十分の理、十分の理とは結構づくめやで」

明治十八年六月八日

「人間心すてたら理は立つのや、人のような心つこうて通りたがる、それで理の立つはずがない、情をつぶして、ころして親の心にそいきるのや、それで情のつぶれるようなことはない。案じ心がいかんのや、よう思案して通れ」