明治九年一月十二日昼頃
「男・女のへだてないと言うても、男は男、女は女やで。へだてないと言うのは神様の御守護に男も女もへだてないと言うことやで、神様の御守護と言うこと忘れたらいかんで」
「男も女も同じだからと言うて、男が女のようになり、女が男のようになってしもうたら、道がのうなってしまう、何と言うても男は天や、女は地やで、天と地では大分ちがう、こゝのところよう思案しなけりゃいかん」
「夫婦が仲よう通らしてもらうにはなあ、どんなことあっても女は地やから天をたてて通らしてもらうのやで、天をたてて通らせてもらわにゃ地の理はなくなってしまう。地はどこまでいっても天にはとどかんもの、こんなことはわかっているやろ、女が天にてを届かそうとするから、けがをするのやで、女は台やで、台は大きなけりゃいかん。台が小さいとひっくりかえるで」
「天のあるところ地がなけりゃいかん。この理よう思案しなはれや」
「女の通る日々の心使いは男より難しいで、ものゝ言い方・ものゝ聞き方、することなすこと一つ一つが男と違う。男は男の通る道、女には女の通る道があるで」
「女の通る日々の心づかいはなあ、むつかしいものや、女は常に嫁に行くときのような心を持って、その心忘れずに日々通らしてもらえればよいのやで。言うことによく注意して、とげのたゝぬようやさしく言わにゃいかん。女というものは、ついじゃけんなものゝ言い方をするものやで、男が聞いたら、あれでも女かいなあと思われるようなことやったらもう女ではないで」
「女の人は、ものゝ見方でも半分しか見ないものや、ものは両面見なけりゃいかんのや」
「障子一つしめたりあけたりするのも坐ってするものや、その動作は美しく見えるものやで」
「女は男と違いぐちの多いものや、心で申し訳ないと思っているうちはいゝけれど、それが口に出るようになってしまうとぐちになるのやで、不足の心持つのも男より女の方が多い、夫婦の中で妻が不足の心を持って通っていると、その理は夫に移っていくで、女は常にやさしくなけりゃ女とはいわれんで、地のやさしい心が天をたすけていくのやで、こゝのところよう思案しなけりゃいかんで」
「女の人にずいぶん無理を言うようだが、決して無理を言うているのやないで、女の心一つで家も国も滅んでしまうようなことになるのやから、女は心して日々通らしてもらうのやで」
「妻は夫にさからわぬよう、何でもはいはいと言うて夫にしたがい、低い心で通らしてもらうのやで、低い心で通らしてもらえれば、あとは神様がつれて通って下さるで、なにも心配はいらん、はいはいと言うて通り、損をするような考え持ったらいかんで」
「女は男に対してよく口ごたえするものや、その口ごたえがいかんのやで、それを言わずに心に治めてくれにゃ女とは言われん、こゝのところよう心に治めておきなはれや」
「神様は、男も女もへだてなくつれて通って下さるのやから、心大きく持って日々を通らにゃいかんで、へだてなくつれて通って下さるのは、男と女が同じということではないで、御守護は同じであっても、男には男の理があるで、女は女やで、こゝのところよう思案しなけりゃいかん」
「女は男に無理を言われるとすぐにつのを出すものや、つの出して通ったらいかん、何でも心に治めて通らしてもらいなはれや」
「日々心に治めて通らしてもらえればこそ、女としての徳がつめるのや、女としての徳というのはなあ、内うち丸く治まるという理になるのやで、女の心の使い方がおさまる理にも、おさまらぬ理にもなるのや、治めて通らしてもらうのが女としての第一の道や、無理を言うているのやないで、女の通る道はむつかしいものやからよう心して日々通ってくれにやいかんで」
「男の人にはなあ、神様のお話を聞いてもらわにゃならん、女の人には女の道をよう心に治めてもらわにゃらん、女の道というは一口で言えば真実の道やで、真実とは低いやさしい素直な心をいうのやで、低いやさしい素直の心とは、女の人のためにあるような言葉や、男には低い心、親には素直な心、子にはやさしい心になって、日々通らしてもらうのやで」
「女の人は身びいき身勝手の多い心をつこうて通る、人にもたれすぎる、親に主人に子供に一生もたれて通ってしまうような日々を通る」
「女は常に、男という理に対してつとめさせてもらうのやで、その心忘れんよう日々通りなはれや」
「女の人は津ねに真実の心で通らしてもらうていたら、必ず人はついてくるものや、それが女の人の真の通る道やで」
「人にあゝさせよう、こうさせようと思う心で通っているから、自分の身がたゝなくなるようなことになってしまう、こゝのところよう考えて通ってくれ」
「この道は人にさせる道やないで、めいめい一人一人が自分からつとめさせてもらう道やから、人がどうのこうのと言うやないで」
「自分がつとめさせてもらう時でも、人にさせようと思う心持ったらいかんで」
「男の人に対しての心の使い方によって、その理のあらわれるのは、お産の時にようわからしてもらえるのやで、お産は日々の心使いのあらわれではない、お産は病ではない、女は誰でもが通る道なのやから、一つも心配ないらん、だが男に対しての心の持ち方考え方が、どのようになるやらしれんで、そのあらわれてくるのは女の病やで、女がその病で倒れるようなことやったら、神様に対して申し訳ないで」
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