明治十年二月三日夕刻
「日々に人をたすけさせて頂くことやで、口で人をたすけるというが、人をたすけさせて頂くことはむつかしいことやで、はじめは人をたすけさせて頂くのやと思っていても、日がたつにつれて守護が見えてくると、自分がたすけてやるのだという心になってしまう。その心がいかんのや、自分がたすけるのではない、神様がたすけて下さるのやで、神様がたすけて下さるというても神様はなあ、たすけさせてもらうものの心にお働き下さるのやで、たすけるものはたすけさせてもらう喜びを持つのや、これが恩返しになるのやで、人をたすけさせてもらうことは神様への御礼にもなるで」
「お助けさせて頂くのに、常に神様のおともをさせて頂く心でなけりゃいかんで、自分が助けるのやないで、神様がたすけて下さるのやからその心忘れんようにしなはれや」
「人をたすけさせてもらうには、我が身どうなってもいう心にならにゃいかんで、我が身どうなってもという心が恩返しになるのやで、これは自分一人の道ではないで、末代までの道、末代に残す道をつけてくれ」
「人にお話をするにはなあ、我が身が心にしっかりとかりものということを治めておかなけりゃいかんで、かりものということをよく教えてやってくれ」
「おたすけをさせて頂くのに、たすける者が誠の心でかりものという理しっかり心に治めておればあとは神が働くほどに、何も案じ心配ないらんで、誠の心でお話させてもらうのやで、これが恩返しになる道や、楽しんでつとめさせてもらいなはれや」
「たすけてもらう者がかりもということ心に治まれば、どんな病でもたすけてもらうことできるのやで、心配ないらん案じ心もたぬよう」
「恩返しになる道、日々通らせてもらうてこそ結構にさせてもらうことできるのやで、勇んで通らにゃいかん」
「人をたすけさせて頂くには、真実の心になって常に低いやさしい素直な心でお話させてもらうのやで、相手の心をたすけさせてもらうのやで、かりものという理心に治まれば治まっただけ御守護頂けるのや、かりもという理しっかり心に治めにゃいかんで」
「人をたすけさせて頂くというは、恩を返すことになるのやから、何時の日にもいつの時にもその心で通らにゃいかんで」
「をやの声聞かしてもろうてその通りつとめさせて頂くところに恩が返せていくのやで。をやの声たよりないと思うていたら、神様はお働きくださらんで、神様が働いて下さらなかったら、日々は通れないのやで。をやの声一つがたよりやで、その声そのまま受ける心に神様が働いて下さるのや、神様に働いてもらうには、かりものということをよく心に治めて通らにゃ神様に働いてもらえんのや、人間心をすてて通らしてもらわにゃいかんで。をやの声聞いて通っていたら、どんな中でもつれて通って下さるのや、こわいあぶない道はないで、神様がつれて通って下さるのやからなあ」
「人間心をすてて我が身どうなってもという心で日々通らしてもらうことができるなら、どんなたすけもして下さるで、それが真実のあらわれや、けっこうやろ。真実の心で日々通らしてもらえば十分の理を何時のときでも見せて下さるで、人は何時でも真実でなけりゃいかんのやで」
「ああもしたい、こうもしたいと思う心あるやろう、その心をそなえるのや、をやのいうなりするなりにしてもらう心、それを素直という、何でもつとめるという心低い心と言う、何でもハイという心やさしいという」
「大きい心というても人間思案はいかん、人間思案ではなんぼ大きいというても大きいとはいえん、人間思案は小さいもの、あれや、これやと考えて、人間心でなんぼ思案したとてせんないこと」
「ああさせたらこうさせたらと思う心がいかん、その心が人間思案やで、大き心になったら人間思案はうかばんもの、大き心でたすけさせてもらうのやで、かりものということよくわからせてやるのやで、人にわからせる前に身がかりものということがわからねばなんぼ話したとてわかってもらえん、ここのところよう思案してくれ」
「日々通らしてもらうに、まず口の聞き方ものの言い方に気をつけにゃいかんで、それからなあ、することなすことに心を使うことやで、不足の心で通っていたら何にもならんで、神様の人間をおつくり下されたお心よう思案しなはれや、これで日々通っている心使いがちがっていないかどうかよう思案するのやで」
「御恩返しをさせて頂くには、まず心をしっかりと定めて、かりものという理を治めてたすけさせて頂くのやで。おたすけさせて頂く時の心まちがわぬようにしなけりゃいかんで、お話するにもかりものということだけお話させてもらえりゃけっこうなのやから、誰にでもできる話やで、自分我が身がその心にならにゃいかんで、よう思案させてもろうて日々を通らせてもらいなはれや」
「親の心にそわずして、親の心ころして通る者、人間心で通る者、勝手な道を歩む者、なれど一度はゆるす、二度はたすける、三度はゆるさん、親という理忘れぬよう、親の心にそうて通らにゃいかんで」
「つくすというは、金や物をつくすだけをいうのやない、身上かして頂いているという恩を報じる心をつくすのが、つくしというて果たしになるのやで、かりものという理がわからねばつくしようがあるまい、だんだん恩がかさなるばかりやで、この理よう思案して、つとめなけりゃいかんで」
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